lily train

イラスト 日記 ひとりごと

ぴりぴり

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地元で散歩中に会った子
感光している写真も、実はそんなに嫌いじゃない

 

 

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こんにちは

 

最近、外を歩いている時とかニュースを見ている時とか、
不意にもやもやとすることが多くて

近年SNSの普及のせいなのか、世の中に蔓延る様々な問題や
各々の抱えている苦悩を目にする機会が増えて

困っている人が声を挙げられることはいいことなのだけれど、
それで色々なことについて色々考えるようになって

そのせいで鬱屈とした気持ちが胸にかかることが
多くなってしまったのかなと思ったのですが

それって違くない?と昨日ふと思いました

 

気がついたのですが、最近のわたしは自分が特に気にならないことでも
敏感に反応しすぎていた

それって、自分が抱いた痛みや不快感ではなくて、
あくまでわたしが想像する「このことで傷つく人がいる」という
架空の人物の痛みなのですよね

架空でなくて身近な実在する人物のことでも それはあくまで
「架空の痛み」でしかない だってその人が直接体験して「痛い」と
言っていないのだから

それを何か見るたび感じるたびに世の中の「声」が頭の中を過ぎって
「このことで傷つく人がいるんだろうな」とか「今のあの言い回しは誰かを
傷つけるんじゃないか」とか 考えすぎていた

 

そういうものに無意識に同調して勝手に苦しくなって、息が詰まりそうだった

もちろん全てが架空の痛みではなくて、わたし自身の感じる痛みもあって
でもその区別がつけられずにいたなあと

 

「人の痛みを想像する」ということは必要なことだけれど、
自分が抱えきれないほど想像するものじゃないなって

というか、そもそも自分本体は気にもしていないことに、
逐一敏感になってるのがすごくばからしく思えた 結果的に「痛みを想像する」
ことで自らがそういうものにがんじがらめな器量の狭い人間になって、
自分の首を絞めてるなと思いました

それに、いきすぎた想像は妄想になり、過信につながりそうな
危なさもはらんでいるように思う

 

痛みを想像して、じゃあどうしたらみんなが気持ち良く過ごせる社会に
なるのだろう?

わたしはどんな風にアプローチ出来るだろう?と考えることは必要
でもそれで自滅したら元も子もないや

 

と思ったので、また急に考えるのをやめる!なんてことは出来ないけれど、
架空の他人の痛みに飲み込まれず 徐々に痛みの区別をつけられるように
したいなと思います

 

 

また似たようなこと書いちゃうかもな それもそれ

 

 

 

おしまい

 

 

ps

はてなさん 「ばからしい」の「からし」に反応して注釈つけるの
やめてもらえません笑